アントニオ猪木氏、好敵手の故マサ斎藤さんへ「特別なレスラーだった…」…村松友視さんとの共著『猪木流「過激なプロレス」の生命力』出版

元プロレスラーで参議院議員のアントニオ猪木氏(75)が親交の深い直木賞作家の村松友視さん(78)と初の共著『猪木流「過激なプロレス」の生命力』(河出書房新社。税込み1728円)が27日に出版された。
同書は、1980年に『私、プロレスの味方です』で作家としてデビューした村松さんが昨年11月に35年ぶりにプロレスについて執筆した『アリと猪木のものがたり』(河出書房新社)の出版を受け、スポーツ報知のメディア局コンテンツ編集部の福留崇広記者が猪木氏と村松さんを個別にインタビュー。今年元日から「スポーツ報知」の電子版で8回に渡り「アントニオ猪木と村松友視が明かす『アリと猪木のものがたり』」を連載し、大きな反響を呼んだ。これを受け、さらに猪木氏と村松さんへのインタビューを重ね、このほど河出書房新社からの出版に至った。
伝説の一戦となった1976年6月26日のボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリとの格闘技世界一決定戦を始め、タイガー・ジェット・シン、ストロング小林、アンドレ・ザ・ジャイアントなど今も語り継がれる生命力を持つ激闘、猪木氏の師匠・力道山、永遠のライバル・ジャイアント馬場への思いなど猪木氏と村松さんが語り尽くしている。通常の対談とは違い、それぞれのインタビューでの言葉を重ね合わせたことで両者の思いがスイングする内容となっている。今回の出版にあたり「スポーツ報知」電子版では猪木氏に独占インタビューを敢行。「猪木流」の生き様に迫った。
村松さんと初の共著となった今回の一冊で歴史に残る激闘を振り返っている。同書で猪木氏と村松さんが語った1972年3月6日、新日本プロレスの旗揚げ戦で戦ったカール・ゴッチ、アンドレ、大木金太郎は鬼籍に入った。そして今年7月14日、1987年10月に無観客の巌流島で2時間5分14秒の死闘を繰り広げたマサ斎藤さんがパーキンソン病のため75歳で亡くなった。
「マサは特別なレスラーだったか?そうですね」
つぶやくように猪木氏は、斎藤さんへの思いを明かした。1964年の東京五輪にアマレス日本代表として出場。翌65年4月に日本プロレスに入門した斎藤さんは、猪木氏が66年に設立に参加した東京プロレスに合流し以来、リング内外で信頼できる盟友として一時代を築いた。マサさんは2000年過ぎにパーキンソン病を発症し亡くなる数年前から入院し治療を続けてきた。
「以前から麻布十番にお互いが行きつけの焼き肉屋があって、病気になった後もそこへ行くと、店の人から“この前、マサさん来てましたよ。元気に食べてましたよ”って聞いて、あぁ良かったなぁって思っていたら、そのうちマサが最近、来なくなったことを聞かされて、そしたら施設に入ったことを教えてもらったんです。ですから、晩年は会えることはなかったんですけど、(佐々木)健介が面倒を見ていたって聞いたので、オレは、あんまりそんなことをしないんだけど、亡くなった時に誰かから健介の番号を聞いて“最後まで斎藤を面倒みてくれたね”って話をしたんです」
マサさんの通夜告別式は、7月21、22日に港区の梅窓院で営まれた。いずれも猪木氏は列席していなかった。
「葬儀には出ませんでしたけど、葬式の時、お寺の門の入り口まで車で行ったんです」
この時、猪木氏は激しい腰痛に襲われ歩くこともままならなかったため、列席することができず車で会場となった寺の門まで行き、手を合わせたという。マサさんへ深い思いを抱いていた猪木氏は、その時にできる限りの方法で最後の別れを伝えていたのだ。日米でトップを取ったマサ斎藤さん。猪木氏は、どんなレスラー像を抱いていたのか。
「一言、ズバリ言えば、そんなに頭のいい選手じゃなかった。要領が悪いというかね。ただ、その要領の悪さを彼なりにリングにぶつけて、彼なりのキャラクターが生まれたと思っています。その要領の悪さを米国の中で利用する奴らがいてね。オレからするとなんで利用されるのかって思っていたんですけど、そういう部分も彼らしさだった。そんな中で彼がくしくも言ってくれたんですね。あの巌流島が一番の思い出ですと。あれがあったからレスラーとしてのマサ斎藤があったと。オレにとっても忘れられない闘いだったし、マサ以外の相手だったら、あそこまでの試合になっていなかった。だから、オレにとって彼は特別なレスラーなんです」(続く)