【#平成】〈7〉オウム松本死刑囚「重くてスミマセン」逮捕時最前線の元刑事が激動の年振り返った

スポーツ報知
松本智津夫死刑囚逮捕の瞬間を振り返った原雄一さん

 天皇陛下の生前退位により来年4月30日で30年の歴史を終え、残り1年となった「平成」。スポーツ報知では、平成の30年間を1年ごとにピックアップし、当時を振り返る連載「♯(ハッシュタグ)平成」を掲載する。第7回は平成7年(1995年)。

 「平成史」どころか「20世紀史」に残る出来事が、平成7年の前半には相次いだ。1月17日に阪神・淡路大震災が発生。約2か月後の3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。5月16日の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(63)の逮捕時に最前線に立っていた警視庁捜査一課の元刑事・原雄一さん(61)、被災地で取材を続けたリポーターの阿部祐二さん(59)の証言から、激動の年を振り返った。

(高柳 哲人)

 「『ドン』と穴を開けたら、麻原の顔がのぞいて、すぐに引っ込んだ」―。天井に後から取り付けたような不自然な「部屋」の壁をハンマーで破り、松本死刑囚と“初対面”した瞬間を、原さんはそう述懐した。逮捕翌日のスポーツ報知には「『麻原か』と尋ねる捜査員に『そうだ。グル(尊師)だ』と答えた」とあるが、報じられなかったやり取りもあった。

 「奥から引っ張り出すと汗まみれで、長い髪が顔にベッタリと付いていた。隠し部屋から降ろす時には『重くてスミマセン』と言っていました」。捜査陣の突入を堂々と待ち構えているイメージを抱いていた原さんにとっては、意外そのもの。化学兵器を使用した世界初の無差別テロとして日本中を震撼(しんかん)させた地下鉄サリン事件から57日後の5月16日午前9時45分。山梨県上九一色(かみくいしき)村(現在の甲府市、富士河口湖町)にあった教団施設「第6サティアン」に突入してから、4時間余りが経過していた。

 数々の凶悪事件を経験していた原さんでも、突入前夜はそれまでにない緊張感があった。「『もし、誰かが殺されたとしても、最後の1人が(松本死刑囚を)捕まえればいい』という雰囲気があったのは確か。指揮官から(突入メンバーとして)名前を呼ばれた時には『よくぞオレを選んでくれた』という気持ちもありました」

 化学兵器で襲撃されるおそれがあったため、臭いに敏感なカナリアを携帯。自衛隊に防護服を借りて着たのも初めてだった。ただ、拳銃は携帯しなかった。「ほとんどのメンバーがそうだったと思います。信者に奪われたら困るというのと、証拠品を運び出す時に邪魔になる」と考えていたからだった。

 だが、実際の松本死刑囚は「『かくれんぼをしていたら見つかっちゃった』とバツの悪さを見せた感じ」。部屋の中にはスナック菓子「カール」とペットボトルの飲み物があった。「確か、お茶でした。それを見て『ああ、麻原は神じゃなかったんだな』と思いましたね。何でこんな男に、信者たちはついていったのかと」。重ねて、教団全体としては「一枚岩」ではなかったことも、原さんは捜査の中で感じていた。

 3月22日の一斉捜査初日。原さんたちが教団施設の中に立ち入ろうとする横を、多くの信者たちが歩いていた。「『こんな教団いてたまるか!』と家族で出て行きました」。また、捜査の立ち合い担当だった若い信者に、休憩時に「出家してずっと教団にいるつもりなの?」と聞くと「『親に黙って家を出たので、帰れない』と泣いていた」という。

 「ごく普通の子たちが興味本位で入ってしまい、抜け出したいけれどできなくなる。それがオウムの特徴だったと思います」と原さん。松本死刑囚は2006年9月に死刑が確定し、東京拘置所にいる。地下鉄サリン事件をはじめ教団が関与した事件に関して、逮捕から23年が経過した現在も、ほぼ何も語っていない。

 ◆地下鉄サリン事件 1995年3月20日午前8時頃、営団地下鉄丸ノ内線、日比谷線、千代田線の3路線5列車でオウム真理教の信者が神経系ガスのサリンを散布した事件。教団への強制捜査阻止が目的とされ、霞ケ関駅など6駅で乗客、職員ら13人が死亡、6000人以上が重軽傷を負った。実行犯の一人、林郁夫受刑者の自供で事件の全容が明らかになり、関与した教団関係者のうち10人に死刑、5人に無期懲役の判決が言い渡された。

 ◆原 雄一(はら・ゆういち)1956年、東京都生まれ。61歳。中大法学部卒。80年に警視庁に入り機動捜査隊、捜査第一課で殺人、凶悪事件の捜査に従事。その後、滝野川署長などを歴任し、2016年勇退。今年3月、95年3月の国松孝次警察庁長官狙撃事件について書いた「宿命 警察庁長官狙撃事件 捜査第一課元刑事の23年」を出版。

 ◆阪神・淡路大震災、まるで爆撃を受けた後の街

 がれきだらけの中、あちこちで火の手が上がる。阿部さんの頭の中には実際には見たことはない「爆撃を受けた後の街」という言葉が浮かんでいた。「『地震なのに何で燃えているんだ?』と思いました」。リポートをしていても周囲が燃えているので空気が熱い。「熱が地面を伝わったり、切れた電線が水に漬かってスパークし、新たに火の手が上がる。その熱を感じながら、しゃべったことを覚えています」と振り返った。

 震災発生は会社からの電話で知った。「テレビで高速道路(の高架橋)が倒れているのを見て『とにかく、大変なことが起きている』という感覚しかないまま、千葉の自宅を出ました」。飛行機で伊丹空港へ。そこから車で神戸へ向かった。伊丹から神戸へは通常なら30分ほどだが、12時間かかった。道路がズタズタだったからだ。

 現地には約1か月滞在したが、「マイナスの意味で景色が変わる」というのも異例の経験だったという。「前の日まで建っていたビルが、翌日には倒れてなくなり、家が燃えて崩れている。通常、災害現場は発生直後が最もひどく、そこからがれきが片付けられ、道路がならされて改善されていくはずなのに、日を追うごとにひどくなっていきました」

 「事件のあるところ阿部あり」と言われるほど、さまざまな現場へ足を運び続ける阿部さんだが、阪神・淡路大震災は俳優からリポーターに転向後、わずか半年後の出来事。現在も、仕事で神戸に行く度に当時の「焼け野原」だった景色が頭に浮かんでくるという。

 ◆阪神・淡路大震災 1995年1月17日午前5時46分に発生した兵庫県南部地震に伴う地震災害。震源は淡路島北部の深さ16キロの地点で、マグニチュード(M)は7・3。神戸市などで最大震度7を記録した。震災による死者は6434人、負傷者4万3792人、住宅被害は約64万棟。被害総額は約10兆円とされる。

 ◆阿部 祐二(あべ・ゆうじ)1958年8月14日、東京都生まれ。59歳。早大政経学部在学中から俳優、モデルとして活動し、84年にTBS系「ビッグモーニング」のリポーターに。現在は日本テレビ系「スッキリ」のリポーター。特技は英語、マラソン、ゴルフ。身長186センチ。長女は17年ミス・ユニバース・ジャパンのモデル・阿部桃子。

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