【アントニオ猪木と村松友視が明かす『アリと猪木のものがたり』〈6〉】世紀の凡戦が猪木に思わぬ波及効果をもたらした

アントニオ猪木とムハマド・アリの戦いは、15ラウンド引き分けに終わった。当時、世紀の凡戦と批判された猪木。世間からの中傷、嘲笑に心は傷ついたが、思わぬ波及効果をもたらした。
「今、振り返るとアリ戦は単なる勝ち負けの勝負だけじゃなくて自分の人生観を変えた部分もあった。試合が終わった直後は、もちろん、そんなことを考えてはいませんでしたよ。(新日本プロレスを中継する)テレビ朝日が放送をやめるとかっていう話しもあったり、アリ戦での借金で会社の財政が危機になった話もあった。そういうことを、一つ乗り切り、また一つ乗り切りっていくと、異種格闘技戦という新しい試合形式が生まれた。その結果、借金もすぐに返した」
アリ戦をバネに猪木は異種格闘技戦という新機軸を打ち出し、従来のプロレスという枠を越えた試合を展開した。これはアリ戦がもたらしたリング上の波及効果だった。さらに、大きかったのは海外での影響力だった。
「パキスタンでアクラム・ペールワンというパキスタンの英雄からの挑戦がその年に出てきた。その時、まったく縁もゆかりもないパキスタンという国でオレのことを評価してくれる人がいるんだっていう思いがあった。アリという名前によってアントニオ猪木という名前が世界的に名前が売れた」
自らが知らない国で「猪木」の名前に脚光を浴びた事実。戦った当事者がまったく計算していなかったムーブメントが発生した。昨年11月に猪木対アリ戦をテーマにした「アリと猪木のものがたり」(河出書房新社刊)を書き下ろした村松友視さんは、こう指摘する。
「猪木さんにとってアリ戦はすごい財産になったと思う。アリと戦った男という立場をすごくうまく商売に使っていった。アリと戦った男ということで展開する異種格闘技戦の世界も新日本プロレスの借金を埋めることにもつながった。猪木さんはあの試合で大きなメリットを受けた」
ネームバリュー、金銭…猪木に多大な恩恵をもたらしたアリ戦。目に見える実質的な利益以上に2人にしか分からない感情が芽生えたと猪木は明かす。
「試合の後、アリと友情が生まれた。彼は、引退してからほとんどのボクサーと会ってないんですね。唯一、戦った相手として生涯、付き合ってきたのはオレだけだったんです。これは、常にオレ自身、世間が自分をどう見ているかっていうことを気にしないのはウソでね。本音のところでは気にしているんです。それはアリも同じだったと思う。そういう中の流れであの試合が終わった後、いろんなことを通じながら互いに自分自身を見つめるられる関係になった。あの試合をやったことで、互いに色んなことを言われましたよ。でも、時を経てアリもオレも“お互い、良かったよなぁ”と通じ合っていったんですね。何が良かったのかというと、アリもオレとの真剣勝負で自分の範疇で見えるものとそうでない異質の飛び出した部分があった。オレもレスリングでは手が読めるけど、そうでない未知の部分をあの試合で感じることができた。そういう部分で通じ合ったからこそ、彼とは、戦った相手ではなく友情というものが生まれたんだと思う」
アリは、猪木との試合後、結婚した時にロサンゼルスでの式に友人として猪木を招待し自宅に招き入れた。アリが戦った相手でそこまで心を許したのは猪木だけだった。1981年12月。トレーバー・バービックに敗れ引退したアリ。ボクサーとしての戦績は61戦56勝(37KO)5敗。この中に猪木戦はもちろん、含まれていない。記録に残らなかった猪木との戦いのアリにとっての意味を村松さんは、こう表現した。
「アリは、猪木戦を契機にボクサーとしては下降線をたどっていった。猪木以上にもっと大きな世界を抱えていたアリは、猪木戦後はプロとしてやらないといけない試合をやり引退した。ただ、東洋の一介のプロレスラーとあの遭遇のような仕方であんな意識の交流みたいなものがボクサーとしてのキャリアの終わりのころにあったということが、アリのその後の猪木さんとの点と線でつながるような縁を考えると、意味がなくはなかったと思う。この関係は、絶対に公のプロボクシング界でもない。米国でもない。黒人の価値観でもない。そこには当てはまらないわけなんです。本当にここはボクなんかが入っていけない2人しか感じられない世界のひとつかもしれない。言えることは、あの試合で猪木は自分の天性の戦うことについて備えている能力をすべて駆使し、アリも格闘家としてのすべての能力を駆使した。そこにプロレスラーもボクサーもない。バックボーンも黒人問題も差別もなくただ戦っている状態になっていった。だからこそ2人は溶けていったと思う」
戦った猪木が明かした互いに共有した未知の領域。試合を見た村松さんが読み取った意識の交流。1976年6月26日、日本武道館のリングで2人にしか分からない感情が生まれていた。そして、それは40年という時を経て猪木と村松さんがたどり着いたドラマでもあった。実は、「猪木プロレス」を暴いてきた直木賞作家をして猪木対アリ戦を書くことはできなかった。2016年6月3日、74歳でのアリの訃報が、この試合を書くきっかけとなった。
「猪木さんは異端。最初の異種格闘技戦となったウィレム・ルスカ戦が実は過激なプロレスでその凄さがあった。その延長線上で頂点にあるのがアリ戦だった。そして、これが一番分かりにくい解読不能なパズルになった。アリは、それほど単純な存在じゃない。猪木戦はボクシングの歴史から抹消され、プロレスの年譜の中でも特殊な試合となった。世間から見れば、大前提でプロレスラーなんてというのがある。しょせん、ボクシングとかプロレスとかの話だろっていうのがある。だから、そこを書くのはオレだなというのがあるんです。何かがあったということでいいんだけど、そこですませちゃうわけにはいけないことが物を書くことのしんどさでした。ただ、今となって猪木・アリ戦を結果が分かって長い時間を経た上で洗い直すと今から江戸時代のことを語るように時間の中での蓄えたものによって構造が見ることができた。そうすると、なるほどなっていうことがいっぱいあったんですね。それは、まさにの試合のビンテージ(生命力)だった」
真正面から「猪木対アリ」という難攻不落のテーマと向き合った村松さん。猪木は、その存在をこう表現した。
「リングでの戦いという部分でもうひとつ大事なことは、誰かが自分を見ているだろうということなんですね。村松友視という作家の視点でアリ戦なりオレをどう見ているんだろうという。一般ファン、猪木ファンとはまた別の、あれだけいろんな人と付き合いをしてきて、切り込み方というかこの人だったらどう見ているのだろう。どう斬り込んで来るのだろう。村松さんだったらどう見ているだろうかというね。これは人生の中での合わせ鏡的な部分で、自分自身を見つめ直すという意味でも非常に重要なんです」
戦う両雄だけでなく、リングに視線を送り、表現する存在がいてこそひとつの試合は成立する。猪木にとって、その代表が作家村松友視だった。その出会いを猪木が振り返る。
(続く)