【ソフトバンク】内川「やっと打てた。しんどかったな…」王手から15打席目2000安打

◆西武0―3ソフトバンク(9日・メットライフドーム)
ソフトバンク・内川聖一内野手(35)が9日、プロ野球51人目の通算2000安打を達成した。残り1本で迎えた西武戦(メットライフ)の8回、西武・武隈から中前安打を放った。5日のオリックス戦(ヤフオクD)で王手をかけてから苦しんだ15打席目。けがや大きな挫折を乗り越えてプロ18年目でたどり着いた偉業を、大分工時代の監督でもある父・一寛(いっかん)さん(61)、妻・翼さん(37)ら家族も見守った。
苦しんだ分だけ喜びを爆発させた。8回1死一塁。内川が外角チェンジアップをはじき返した。大歓声のなか打球が中堅右に弾むと、右手を突き上げた。王手をかけてから実に15打席かかった。最後は内川らしい右打ちで2000本にのせた。
最後まで生みの苦しみを味わった。残り2本で迎えた4日からのオリックス3連戦(ヤフオクD)では本拠地ながらわずか1安打のみ。大宮の西武戦でも無安打。ふがいない自身への怒りでストレスもため込んだ。「やっと、やっと打てた。しんどかったな…。打席の中で自分が自分でないようなフワフワした感じだった」。偽らざる本音だった。
残り104本で迎えた昨季は6月に首痛、7月末から左手親指付近の骨折と2度離脱したため、持ち越し。残り25本で今季を迎え、ゴールが現実的になったことで心が揺れ、自分のスタイルを見失った。「すんなりあと1本が打てないあたり、2000本打ってきたとはいえ、僕もまだまだ」と己の未熟さもかみしめた。
野球人生を絶たれそうな困難を何度も乗り越えてきた。大分工1年夏に左足かかと骨嚢腫(のうしゅ)で3度手術。プロ入り後、二塁手だった04年には、高校時代の遊撃とは違う角度、距離感に苦しみ送球難に陥った。「ショートからなら目をつぶっても投げられたのに、どこに投げていいか分からない」と父・一寛さんに弱音も漏らした。母・和美さんからは「一生懸命やったんだから何も恥ずかしくない。無理してプロ野球選手をやるなら一緒に大分で暮らしましょう」と引退も勧められた。
転機は08年。自主トレに行く前、両親に「今年、ダメだったらやめるわ」と伝えた。同年、ヤクルトから横浜(現DeNA)のコーチに就任した杉村打撃コーチ(現ヤクルト)に打撃理論すべてを覆された。「前で拾って打つのが得意」の内川に対し、前年まで敵軍ベンチから見ていた杉村コーチの見解は真逆だった。「ポイントが前過ぎるので崩しやすい。引きつけて広角に打ったほうがいい」。映像などで見れば5センチほどの差を極める戦いが始まった。連日の早出特打。逆方向や体の中心で打つことを意識する7種類のティー打撃などが礎となり、打率3割7分8厘。右打者では過去最高打率で首位打者を獲得した。「自分には(特長が)何もなかったから右方向への打撃をしつこくできた」とプロで生き抜く技術を手にした。
横浜時代の09年、WBC第2回大会で世界一に貢献し、ソフトバンク移籍後の13年、第3回大会では準決勝の走塁ミスで“戦犯”になった。日本に帰ることが怖かった。「何回も野球を裏切ったし、やめようと思った。でも野球が僕を離してくれなかった」。天国と地獄を味わったWBCも含めすべての経験を糧にして上り詰めてきた。
ようやく個人記録の重圧から解放された。だが、2年連続日本一を目指す戦いは続く。「個人的な数字が物足りないので取り戻せるように頑張りたい」。岩崎、サファテも長期離脱し、今年は打線の奮起が必要だ。中心を任される4番として、そして主将としてまだ道半ばだ。(戸田 和彦)
◆内川 聖一(うちかわ・せいいち)1982年8月4日、大分県生まれ。35歳。大分工から2000年ドラフト1位で横浜(現DeNA)入団。08年に右打者で史上最高となる打率3割7分8厘で首位打者。10年オフに国内FA権を行使しソフトバンク移籍。11年に史上2人目のセ・パ両リーグで首位打者を獲得しリーグMVP。09、13、17年のWBC日本代表。185センチ、93キロ。右投右打。既婚。年俸4億円。